宮崎 勤

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宮崎 勤(みやざき つとむ、1962年8月21日 - 2008年6月17日)は東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件広域指定第117号事件)の容疑者として逮捕、起訴され、死刑判決が確定し、執行された人物である。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件 も参照

生い立ち

東京都西多摩郡五日市町(現あきる野市)にある地元新聞会社経営の裕福な一家の長男として出生。両親は共働きで忙しかったため、宮崎が産まれてまもなく、30歳ぐらいの知的障害を持つ子守りの男性を住み込みで雇い入れている。幼い勤の世話はほとんどこの男性と祖父が行っていた。宮崎家は曽祖父は村会議員、祖父は町会議員を勤めており地元の名士であった。家族は祖父、祖母、両親、妹二人の7人。祖父は引っ込み思案な宮崎を連れて歩き、可愛がっていた。

幼い頃から手のひらを上に向けられない『両側先天性橈尺骨癒合症[1]という当時の日本には150ほどしか症例のない珍しい身体障害があった。そのため、幼稚園ではお遊戯や頂戴のポーズもできず、周囲からからかわれても幼稚園の先生は何もしなかったため、非常に辛かったと供述している。

小学生時代は「怪獣博士」と呼ばれるほど怪獣に夢中になったが、クラスの人気者というわけではなかった。中学生時代は将棋部に所属、負けると異常に悔しがり、さまざまな攻略本を読み、負けた相手には必ず勝つほど勝利に執着した。また通信教育空手を習い、空手の型を同級生に見せる事があった。成績は上位であったが、国語社会科を非常に苦手とした。1978年、手の障害を気にし、自宅から片道2時間もかかる男子校であった明治大学付属中野中学校・高等学校へ進学するが、両親は英語教師になるためにわざわざ遠い高校へ進学したと勘違いしていた。同級生は暗く目立たない少年だったと証言している。高校時代は徐々に成績が落ち、本人は明治大学への推薦入学を希望していたが、クラスでも下から数えた方が早い成績で、その希望は果たせなかった。高校卒業後の1981年東京工芸大学短期大学部画像技術科に進学。この頃はパズルに夢中になり、自作のパズルを専門誌に投稿したり、雑誌のパズル回答者として雑誌に名前が掲載されることもあった。1982年短大在学中にNHKのトーク番組『YOU』のスタジオ収録に友人と出かけているが、アナウンサーが近づきインタビューをしようとすると、他の出演者に隠れて、インタビューを受けることはなかった。俳優の川崎麻世は宮崎とは短大の同級生になるが、宮崎の逮捕時のインタビューでは「僕は記憶力が良い方で、80人ぐらいの少人数クラスなので覚えているはずだが、友人に聞いても覚えていなかった」というほど影が薄い存在であった。

1983年4月、短大卒業後は叔父の紹介で小平市の印刷会社に就職し、印刷機オペレーターとして勤務。ある同僚は「勤労態度は極めて悪く、評判も非常に悪い」と評している。1986年3月に解雇。両親が家業を手伝うよう何度か声をかけたが、自室にこもる引きこもり生活が数ヶ月続いた。9月ごろから家業を手伝い出すが、広告原稿を受け取りに行く程度の簡単な手伝いであった。この頃アニメ同人誌を発行するが、仲間から嫌われ、1回だけの発行で終わっている。その後は数多くのビデオサークルに加入し、全国各地の会員が録画したTVアニメや特撮番組ビデオダビング交換、コレクションするようになるが、ほとんどのテープは自ら鑑賞する事はなかった。ビデオサークルでは他の会員に無理な録画やダビング注文をするためここでも仲間から嫌われていた。逮捕後の家宅捜索では6000本近くのビデオテープを所有していたことが判明する。1988年5月、祖父が死去。8月22日に第一の犯行を起こす。1989年3月には晴海のコミックマーケット漫画作品を出品している。

事件後

1989年7月23日、わいせつ事件を起こそうとしていたところを被害者の父親により取り押さえられ、宮崎は強制わいせつ容疑で現行犯逮捕された。次々と別の事件が明るみになった後、後藤正夫法相(当時)は「死刑くらいでは収まらない残酷な出来事だ」と発言した。1989年8月24日東京地検の総務部診断室で簡易精神鑑定を受ける。精神分裂病(当時の呼称で、現在では統合失調症に改称)の可能性は否定できないが、現時点では人格障害の範囲に留まるとされ、これを受けて検察は起訴に踏み切った。初公判では「全体的に、醒めない夢を見て起こったというか、夢を見ていたというか・・・」と罪状認否で訴えた。

公判開始後の1990年12月20日より468日間にわたって、5人の精神科医と1人の臨床心理学者による精神鑑定が実施される。この鑑定では動物虐待等の異常行動に目が向けられ、祖父の遺骨を食べた事などは供述が曖昧なため事実ではないとみなされた。1992年3月31日精神鑑定書が提出され、人格障害とされた。実際、性的倒錯は人格障害の患者によく見られる症状である。祖父の骨を食べた件については弁護側は墓石などが動かされた事を証拠としたが、検察側はそれだけでは確証ではないと反論した。

1992年12月18日より、弁護側の依頼により3人の鑑定医により678日をかけた再鑑定が始まる。1994年11月30日に鑑定書が提出される。第2回鑑定では1人は統合失調症、2人が解離性同一性障害の鑑定を出した。

判決後

1997年4月14日東京地方裁判所で死刑判決。判決時の被告は時折周囲をしらけた表情で眺めるくらいで、いつものように机上に広げたノートに何かを書き続けていた。法廷を出る際は、薄笑いを浮かべていた。責任能力に関しては、逮捕時の彼にそのような多重人格や統合失調症を疑わせるような異常な反応は見受けられず、逮捕による拘禁反応とみなした場合に最もうまく説明できる事を理由に第2回鑑定は採用されず、責任能力は完全に保たれていたとされた。即日控訴。

2001年6月28日東京高等裁判所一審支持・控訴棄却の判決。同年7月10日、上告。2004年には奈良小1女児殺害事件が起こるが、同事件の容疑者が「第二の宮崎勤」の発言を行ったことに対し「精神鑑定も受けずに、『第二の宮崎勤』は名乗らせません」(『創』2006年1月号)と宮崎の名を使った事に対し痛烈に批判した。2006年1月17日最高裁判所が弁護側の上告を棄却。弁護側は判決訂正を求めたが、2008年6月17日東京拘置所で死刑が執行された[2]。宮崎は冷静に執行を受け入れ、また宮崎の母親は遺体との面会後に、遺体の措置については拘置所に任せたという[3]

雑誌『創』篠田博之編集長に宛てた手紙には日本の現行の死刑方法における批判がしばしば書かれており、2006年には「踏み板がはずれて下に落下している最中は、恐怖のどんぞこにおとしいれられるのである」と絞首刑を批判、薬物注射による死刑導入を訴えている。2007年の書簡には「この国の現行の死刑執行方法だと、死刑確定囚の人は、刑執行時は恐怖とたたかわねばならず、反省のことなど考えなくなる」とも記していた[4]。編集部に宛てた手紙はおよそ300通、内容は拘置所内で読んだ漫画本のタイトルを並べただけの物が殆どであった。知人にも合計で2000通近くの手紙を拘置所内から送っていた。また、死刑判決が決定してからは独房でアニメビデオを鑑賞することが許可されていた[5]

動機

事件の奇異さから、さまざまな憶測が飛び交い、また宮崎自身が要領を得ない供述を繰り返していることから、裁判でも動機の完全な特定には到っていない。

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者(ペドフィリア)ではなく、あくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛死体性愛などの傾向は見られません」(第1次精神鑑定鑑定医 保崎秀夫 法廷証言)および「幼児を対象としているが、本質的な性倒錯は認められず・・・幼児を対象としたことは代替である」(簡易精神鑑定)。

死刑執行の背景および波紋

2008年6月17日午前に鳩山邦夫法相の命令で宮崎の死刑は執行された[6]。犯行動機は未解明のまま、精神鑑定も継続中という状況だった。(過去10年間における)死刑確定から死刑執行までの平均は約8年であり、死刑確定から2年4ヶ月というスピード執行となる。2007年12月以降、法務大臣が死刑執行された死刑囚の氏名を公表しているが、宮崎勤の死刑執行は鳩山法相下では最も大きな注目を集めた死刑執行であった。

2008年6月8日秋葉原無差別殺傷事件が影響を及ぼした可能性も指摘されていたが[7]、鳩山法相元秘書でジャーナリストの上杉隆によると宮崎勤死刑執行は秋葉原事件とは関係ないとしている。死刑執行時の恒例であるが、この執行に対してもアムネスティ・インターナショナル日本や「死刑廃止を推進する議員連盟」(会長・亀井静香衆院議員)など人権団体が同日、相次いで抗議を表明した[8][9]

また、日本弁護士連合会宮崎誠会長名で「半年余りで13人の大量の死刑執行が行なわれた。政府に対し、死刑制度の存廃を含む抜本的な検討と見直しを行なうまでの一定期間、執行を停止するよう重ねて強く要請する」との声明を出した[10]。宮崎死刑囚の弁護人を務めた田鎖麻衣子弁護士は同日、「数ヶ月前から再審請求の準備を進めていた。こうした事情を知りながら、死刑を執行したことに強く抗議する」との声明を発表した[11]。5月末には鳩山邦夫法相に死刑を執行しないよう文書にて要請していたという[11]

著作

雑誌『創』編集部との往復書簡を掲載したものが出版されている。

  • 夢のなか - 連続幼女殺害事件被告の告白 -1998年12月 創出版 ISBN 9784924718302
  • 夢のなか、いまも - 連続幼女殺害事件元被告の告白 - 2006年2月 創出版 ISBN 9784924718722

外部リンク