東京都立上野高等学校

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東京都立上野高等学校
Mai Sato 01.jpg
佐藤麻衣さん(15歳)
国公私立の別 公立学校
過去校名 第二東京市立中学校
東京都立上野中学校
東京都立上野新制高等学校
設置者 東京都
校訓 自主協調・叡智健康
設立年月日 1924年4月27日
共学・別学 男女共学
課程 全日制課程
単位制・学年制 学年制
設置学科 普通科
高校コード 13117C
所在地 〒110-8717
東京都台東区上野公園10-14
外部リンク 東京都立上野高等学校

東京都立上野高等学校(とうきょうとりつうえのこうとうがっこう)は、東京都台東区上野公園に所在する都立高等学校上高の通称で呼ばれている。

概要[編集]

1924年関東大震災後の学校不足解消のために第二東京市立中学校として開校。創立から九十年を越えた都立有数の伝統校。上野公園の端、東京芸術大学上野動物園に接した位置にある。

以前は東京における北の玄関口であることと京成本線の始発駅があるという地勢から千葉県埼玉県からの越境通学者が多かった。

1950年代は東京大学合格者を連年30名-40名前後を輩出した。しかし、その後は進学実績が低迷し難関大学への進学者は少数に留まっているが、芸術系大学に強いという特徴を持っている。

2004年に都の重点支援校に指定され、一時限45分・7時間授業の導入や土曜授業の復活、教員公募制の実施や夏休みの勉強合宿が開かれている。1969年に発生した学生運動以来の私服校であったが、2006年度から標準服が導入され、多くの生徒が着用しているが基本的に自由であり私服登校の生徒もいる。2016年度入学の71期生から制服が導入された。一般入試においては都の共通問題を使用している。

交通[編集]

テンプレート:location map 東日本旅客鉄道(JR東日本)・地下鉄日比谷線銀座線上野駅京成上野駅から、上野公園を横断して徒歩10分。地下鉄千代田線根津駅からは徒歩7分に位置する。

赤羽池袋方面から来る生徒は、日暮里から谷中霊園を通って通学する生徒も多い。

施設[編集]

現在の校舎は1987年に建築されたものである。以前は埼玉県新座市平林寺より土地を借り、体育用のグラウンドとして使用していたこともあった。しかし寺との戦前の借地約束の有効性のトラブルから裁判となり、1975年ごろ、それに敗訴し使用権を失った。その他長野県東御市に、ログハウス様の山荘を財団法人の上高会が管理している。

沿革[編集]

- 71期生から制服導入。

関連団体[編集]

著名な出身者[編集]

政治
行政
経済
法曹
学術
文化
芸能
その他

校歌[編集]

この校歌は大正13年1924年)に第二東京市立中学校として開校した当時に制定された。元は三番まであり現在の二番が三番だったが、旧二番の内容が軍国主義的であったとされ戦後になってから三番は無くなり、旧三番が二番となり現在に至る。

また、作家の森まゆみが地域雑誌『谷根千』90号の表紙裏に同校歌について以下のように書いた。

「驚いた。“負けた側”を讃える校歌があるなんて。徳川の世に殉じて新時代の到来に命を捧げた至誠ゆかりの地。どんなに学びの道が険しかろうと、人生波乱万丈であろうと、仁愛正義」の赤白旗を揚げた彰義隊のように、「人を頼まぬ雄々しい心」で行こう。」


作曲:田村虎蔵東京高等師範学校助教授・童謡作家/当時本校の音楽教諭)

作詞:藤村作東京帝国大学名誉教授)


[一番]

過ぎし時代に殉えつつ 新しき世に捧げたる

高き至誠の香に匂ふ 昔江戸の鎮護の地

東叡山の丘の上 そそりて立つは我が母校


[二番]

屋上高き登り行き 霊峰富士に対ひつつ

三千年の源遠き 國の生命と国民の

雄々しき明き潔き 日本精神をたたふかな


[三番]

學海風は荒べども 人生谷は深けれど

人を頼まぬ雄心に 力合わせて捧げ持ち

仁愛正義赤白の 旗影遠く靡かせん

裏話[編集]

  • 東京都立上野高等学校は2つ校庭を持っている。一つは校舎の隣にある第一グラウンド。もう一つは道路(公道)を挟んで向かい側にある第二グラウンド。校舎から第2グラウンドへは道路上に架けられた歩道橋を使って行くことができる。その道路上に町丁目境界が敷かれているため、校舎側の第一グラウンドの「台東区上野公園10丁目」の住所に対して、第二グラウンドは「台東区池之端4丁目」の住所を持つ。

関連項目[編集]

脚注[編集]

外部リンク[編集]