1997年アルバニア暴動

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1997年アルバニア暴動(1997ねんアルバニアぼうどう)は、無限連鎖講(ネズミ講)の破綻をきっかけとしてアルバニアで発生した全国的な暴動である。

背景[編集]

1990年代中期、アルバニアは計画経済から自由経済に移行した。未熟な金融システムから、やがてポンジ・スキームが横行するようになり、政府さえもが無限連鎖講を認めるようになった。手っ取り早く金持ちになれるとの約束を信じ、アルバニアの人口の3分の2程がネズミ講に資金を投入していたが、やがて出資者への支払いは不可能となった。1997年には破綻が訪れ、わずか人口3百万人のアルバニアで合計12億ドルの資金が失われた。多くの市民が抗議のために路上に繰り出し、詐欺から国民を守ることができなかった政府への不満から暴徒化し、これによって政権が転覆し、国は無秩序状態となり、2千人程度の人々が死亡した。

暴動[編集]

1997年2月、政府がネズミ講から資金を受け取っていたと疑った市民らは、毎日大勢が集まって政府に支払いを求めて抗議を繰り広げた。3月、抗議活動は、港町のヴロラをはじめとする南部で暴動化した。この時、多くの市民らが兵舎から略奪した武器で武装していた。3月2日、大統領サリ・ベリシャ非常事態宣言を発令したが、暴動は国中に広がり、2週間にわたって首都のティラナも巻き込まれた。政府は北部での鎮圧に成功したものの、次第に無政府状態が国中に広がり、アルバニアの南半分は武装反乱勢力や暴力団の支配下となった。

3月11日、アルバニア社会党の指導者バシュキム・フィノが首相に指名された。しかし、政権の移譲によっても暴動は収まらず、アルバニア北部にも拡大していった。3月13日の時点で、全ての主要都市が暴動に巻き込まれ、外国政府は自国民をアルバニアから救出する作戦を始めた。 (トンボ作戦銀の航跡作戦を参照

暴動のアルバニア国外への拡大や、この年代で3度目となるアルバニアからの難民流出への危惧から、国際連合は3月28日に、7千人の兵力を混乱の沈静化と秩序の回復のために派遣することを決定した。4月15日、アルバニアの秩序回復のためのイタリア主導の「夜明け作戦」に7千人の兵士が投入された。

余波[編集]

1997年6月から7月にかけて行われた選挙では、ベリシャとその党は政権を失い、国連軍は8月11日までに完全にアルバニアから撤退した。社会党のレジェプ・メイダニがアルバニア大統領に選出された。

参考文献[編集]

  • Afrim Krasniqi: “Rënia e demokracisë”. Tirana 1998