「Yourbooks:義と友情に殉じた漢・平塚為広の関ヶ原」の版間の差分

提供: Yourpedia
移動: 案内検索
(為広の関ヶ原)
(Mario Yonezawa (トーク) による版 363501 を取り消し)
 
(2人の利用者による、間の4版が非表示)
19行目: 19行目:
 
戦いのさなか、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷軍を攻め始めます。
 
戦いのさなか、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷軍を攻め始めます。
  
為広は自らも武器をふるって奮戦し、防戦に努めました。ですが、'''脇坂安治・朽木元綱ら西軍諸将が次々と裏切った'''為、隊は壊滅状態になってしまいます。
+
為広は自らも武器をふるって奮戦し、防戦に努めました。ですが、'''脇坂安治・朽木元綱らの諸将が次々と裏切った'''為、隊は壊滅状態になってしまいます。
  
脇坂安治らの諸将の裏切りは吉継と為広にとっては誤算でした。何故なら、この'''脇坂安治・朽木元綱ら西軍諸将は小早川秀秋の監視役として吉継が配置した'''ものであったからです。
+
脇坂安治らの諸将の裏切りは吉継と為広にとっては誤算でした。何故なら、この'''脇坂安治・朽木元綱らは小早川秀秋の監視役として吉継が配置した'''ものであったからです。
  
 
最悪ですよね!?'''万一小早川秀秋が裏切ったための監視役が裏切ったんですよ!?'''
 
最悪ですよね!?'''万一小早川秀秋が裏切ったための監視役が裏切ったんですよ!?'''
51行目: 51行目:
  
 
軽輩の出でありながら、思慮深く、当日の敢闘は後世の美談となりました。
 
軽輩の出でありながら、思慮深く、当日の敢闘は後世の美談となりました。
 +
 +
[[Category:平塚為広]]
 +
[[Category:Yourbooks]]
 +
[[Category:Yourbooks:ヒストリー]]
 +
[[Category:日本の歴史]]
 +
[[Category:戦国時代]]
 +
[[Category:戦国武将]]
 +
[[Category:関ヶ原]]
 +
[[Category:垂井城]]
 +
[[Category:垂井城主]]
 +
[[Category:織豊政権の大名]]
 +
[[Category:三浦氏]]
 +
[[Category:戦死した人物]]
 +
[[Category:16世紀生]]
 +
[[Category:1566年生]]
 +
[[Category:1600年没]]

2018年12月17日 (月) 09:51時点における最新版

為広の関ヶ原[編集]

平塚為広の前半生については不詳であり、出自・生年等についても定かではありません。 (一説では明智光秀に仕え、本能寺の変に参加したとも言われています)

やがて為広は、豊臣秀吉に馬廻衆として仕え、ここから為広は豊臣の将として出発しました。 為広は小牧長久手の戦いや小田原攻めで武功を挙げ、頭角をあらわし、朝鮮出兵では肥前名護屋城に駐屯しました。

豊臣秀吉は、そんな為広を信用していたのでしょう。 為広は1595年に5000石(一説に8000石)を与えられ、1598年の醍醐の花見では秀吉の側室の護衛に抜擢されました。 また、1598年の秀吉の死後、金5枚を遺品として受領しました。

その後、為広は豊臣秀頼に仕え、関ヶ原の戦い直前、大谷吉継と共に石田三成に諫言します。 しかし、石田三成はその諫言を聞き入れずに挙兵してしまいます。 そのため、為広は大谷吉継と共に早く西軍に属し、7月19日から21日にかけて伏見城を攻めました。

関ヶ原本戦の9月15日、為広は大谷吉継の隣に布陣し、藤堂隊などと戦いました。 この際、小早川秀秋の背反を予測し、病身の吉継に代わって大谷勢(の一部)の指揮を執っていました。

戦いのさなか、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷軍を攻め始めます。

為広は自らも武器をふるって奮戦し、防戦に努めました。ですが、脇坂安治・朽木元綱らの諸将が次々と裏切った為、隊は壊滅状態になってしまいます。

脇坂安治らの諸将の裏切りは吉継と為広にとっては誤算でした。何故なら、この脇坂安治・朽木元綱らは小早川秀秋の監視役として吉継が配置したものであったからです。

最悪ですよね!?万一小早川秀秋が裏切ったための監視役が裏切ったんですよ!?

これは吉継・為広を騙す非常に悪質な手口であるといえます。しかも途中で裏切るなんて、初めから東軍に付いた豊臣方の武将よりタチが悪いです。

……熱くなってしまいました。すいません。

そして為広は覚悟を決めると、討ち取った首の一つに辞世の句を添えました。

そして、それを大谷吉継に届けるように部下に命じると、自らは小川祐忠隊に突撃し、山内の家臣樫井太兵衛に討たれ討死したのです。

辞世の句を添えた首は、無事に大谷吉継の元に届きました。

それを見た吉継は、「祝着至極である。改めて冥土で再会しよう」と言い、切腹したと言います。

最後に、下が為広の辞世の句です。

名のために棄つる命は惜しからじ つひに止まらぬ浮世と思へば

忠義と大力の武将・平塚為広[編集]

平塚為広を端的に示すキーワードと言えば、『忠義』と『大力』でしょう。

『忠義』は言わずもがな、醍醐の花見で秀吉の側室の護衛に抜擢されたり、 秀吉の死後、金5枚を受領していることからも分かります。

一方の『大力』ですが、為広は力自慢であり、薙刀 (槍?) の名手であったという話があるのです。 そんな為広ですから、関ヶ原の戦いの中、多勢に無勢にもかかわらず奮戦できたのでしょう。

軽輩の出でありながら、思慮深く、当日の敢闘は後世の美談となりました。