笹川良一

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笹川 良一(ささかわ りょういち、1899年明治32年)5月4日 - 1995年平成7年)7月18日)は、日本右翼活動家

「これはねえ、やっぱり狂ってますよ。この笹川は。

顔見てご覧なさい。目はつり上がってるしね。顔がぼうっと浮いているでしょ。

これ気違いの顔ですわ」
~ 笹川良一 について、塩爺
国粋大衆党総裁、衆議院議員財団法人日本船舶振興会会長、福岡工業大学理事長を務めた。称号箕面市名誉市民勲一等旭日大綬章受章者。

人物[編集]

一般にはファシスト右翼、また政財界の黒幕としても知られ、「日本の首領(ドン)」とまで呼ばれた。1974年昭和49年)、アメリカタイム誌のインタビューでは「私は世界で一番金持ちのファシストである」と答えている。また同時に「社会奉仕活動に熱心な偽善者」というイメージを持たれる人物だが、その真相については様々な意見、論評があり定まっていない。

経歴としては、第二次世界大戦A級戦犯容疑者の指定を受け巣鴨プリズンに3年間収監されるが、後に不起訴により釈放される。すなわち無罪である。しかしA級戦犯容疑指定を受けたことが誤って社会に認識され続け、現在でも笹川のことをA級戦犯で有罪となったと信じている人が多いのも事実である。なお巣鴨プリズンに収監された際には、詳細な日記を残している。巣鴨釈放後は、戦犯者とその家族の救援に尽力。巣鴨時代に書きためた日記や、戦犯者およびその家族との書簡は笹川の没後に公表された。

なお第二次世界大戦前の笹川は自分を「大衆右翼」と位置づけ[1]、大衆運動の合法的組織化に力点を置いて国粋大衆党を結成。上記のような一般のイメージに反して、太平洋戦争(大東亜戦争)をはじめとする戦争に日本が進んでいくことに対しては慎重論者であったとともに、東條内閣の一部の政策に真っ向から反対していたことも知られている。

巣鴨プリズン出所後は、モーターボート競走法成立に尽力し、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与。モーターボート競争の収益金で造船の振興をすすめ、更に福祉方面の公共事業を助成する財団法人日本船舶振興会を創設し、国内外で社会奉仕活動に邁進した。株式取引に長け[2]、個人としては莫大な財力を持っていると見られていたが大半は社会活動に投じていた。

来歴[編集]

政治活動[編集]

大阪府三島郡豊川村(現・箕面市)に造り酒屋の長男として生まれる。1914年大正3年)3月、豊川村尋常高等小学校(現・茨木市立豊川小学校)高等科卒業、作家川端康成とは小学校の同級で、祖父同士が囲碁仲間であった。飛行機乗りを志し、陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。

1925年(大正14年)、豊川村の村会議員に当選して政治活動を始める。芸能事務所経営を経る傍ら株式相場にも手を広げて一財産を作り[3]飛行機飛行場を軍に献納して軍人に知己を得た。

川島芳子

その一方で弟を通じて関西浪人会で活動していた藤吉男を支援、1931年(昭和6年)には右翼団体国粋大衆党を結成し総裁に就任する。部下に児玉誉士夫がいたこともある。ムッソリーニの崇拝者であり、イタリアファシスト党の制服を似せて私兵に黒シャツを着せていた。

1932年(昭和7年)に満州国が建国されると、同国の皇帝愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高めた。なおこの頃、「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれ一世を風靡した関東軍スパイ川島芳子との交際があったと噂されている。本人は川島と親密であることは認めているものの、交際については否定も肯定もしていない。

1935年には党の他の幹部とともに、恐喝容疑で逮捕。最終的には無罪となるが、4年間の間、収監される。

1939年(昭和14年)には飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見した。この訪欧飛行の実現については海軍の山本五十六の後援があった[4]

1942年(昭和17年)に行われた翼賛選挙では戦争に対して慎重であり東條内閣の政策に反対の姿勢のため非推薦の立場で立候補、当選して衆議院議員を一期務めた。この頃には既に重光葵岸信介安岡正篤とも親交があったとされる[5]

1945年(昭和20年)には、連合国指令によりA級戦犯容疑者として12月1日に逮捕命令が出て、12月11日に巣鴨プリズンに入獄したが、実際に東京裁判の法廷に立つことはなかった。

アメリカの方針が180度変わり、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する方針変換となったため(いわゆる逆コース[6]1948年(昭和23年)12月24日に不起訴により釈放。釈放後、1942年(昭和17年)に国粋同盟に改称されていた国粋大衆党をさらに全国勤労者同盟に衣替えし、右翼活動を再開した。

A級戦犯容疑と「巣鴨日記」[編集]

巣鴨プリズン

笹川は戦争中、戦犯指定を受けるほどの活動はしていなかったが、「太平洋戦争後に戦勝国が敗戦国を裁くことは不当であり、東アジア・太平洋地域における戦争の責任は日本だけにあるのではない」と考えていた。また、「東アジア・太平洋地域に植民地を作り、長年支配してきた欧米列強にも当然戦争の責任の一端がある。特に日ソ中立条約を破って、一方的に日本を攻撃したソ連は強く批判されるべきである」というのが笹川の立場であった。そのため連合国批判を繰り返し、1945年(昭和20年)12月11日、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに収監された[7]

ただし、当初笹川は自らの演出によって戦犯の容疑を受けたと考えていたが、入獄後の尋問の中で、実際の逮捕理由は「超国家主義的、暴力的結社及び愛国的秘密結社の主要人物」(CIS、民間諜報局作成のファイルによる)としてであったことを知る[8]

笹川は、投獄初日の1945年12月11日から翌年11月まで獄中日記をつけていた。この日記には、巣鴨プリズンの様子やABC級戦犯達の人間像が克明に描かれている。また、日記には彼の信念、「日本が親米反共の道を選ぶべきこと」、「日本同胞を餓死から救わねばならぬこと」、「世界平和を確立させねばならぬこと」などが繰り返し書き付けられている。

この日記によると獄中の笹川は、東條英機らに対してこの戦争が自衛のためのものであったという日本の立場を明確にし、かつ昭和天皇が戦犯として裁かれることを懸念していたため、開戦の責任は天皇にはないとはっきり主張せよと説いている。また笹川は、獄中から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、看守の迫害にも屈しなかった。

一方で、この獄中に於いて同じA級戦犯容疑者として収監されていた政治家らとも知り合い、戦後の政界・官界に繋がる人脈への構築へと繋がっていく。なお、戦前にも長期の獄中体験がある笹川は、その経験からひ弱なエリートであるA級戦犯たちを励まし、またその一方で獄内でA級戦犯の特権を認めない行動をとったことから、BC級戦犯たちの間でも絶大な人望があったという[9]

後年になるが、『世界』1952年10月号に「一戦犯者」名義で「私達は再軍備の引換え切符ではない」と題する投稿が採用されると、笹川はこの内容に怒り筆者を突き止めようとした。しかし戦犯にもこの投稿の支持者が多く、発行元の岩波書店も筆者を漏らさなかったため、そのまま沙汰止みになったという(のちに加藤哲太郎が筆者と名乗り出た。加藤はBC級戦犯として服役していた当時、笹川と面会したことがあった)。

戦犯者救済活動[編集]

笹川は獄中にいる当時から戦犯の劣悪な待遇の改善を要求し、あるいは誤解により戦犯となってしまった人々の釈放を求めていたが、収監から3年後不起訴により釈放された後は、煙草も断って戦犯者やその家族らへの支援および刑死者の慰霊に奔走した。海外で収監されていた戦犯者や「三国人」の戦犯者の救援にも力を注いでいる。戦犯者援護と慰霊のために設立された宗教法人白蓮社、および家族会である白菊遺族会にも物心両面の協力を続けたとされる。

戦犯者とその家族を支援することは当時としては占領軍を刺激する惧れのある大変危険な行為と考えられ、実行する人間はほとんどいなかった[10][1][11]

笹川家には戦犯者や戦犯家族からの膨大な礼状が残されているが、生前の笹川はそれを一切公表していない。笹川没後、それら書簡の一部は伊藤隆編集の元に『「戦犯者」を救え 笹川良一と東京裁判2』 として刊行された。

競艇[編集]

モーターボート競走に関心を持つきっかけとなったのは、巣鴨プリズンで手にした『ライフ』誌にボート写真が載っているのを見たことであったという[12]

出所から2ヶ月も経たない1949年(昭和24年)2月頃から藤や矢次一夫[13]と計らってモーターボート競走法制定について主要政党や関係各省庁、有識者などに働きかけを開始した。競走法は参議院での否決後での衆議院の再可決[14]など紆余曲折を経て成立したが、競艇の主宰をめぐって笹川・矢次[15]らの一派と大野伴睦・福島世根らの一派で分裂状態になるが、最終的に笹川らが競艇主宰の主導権を握ることになった。なお笹川の競艇創設の栄誉をたたえ、SG競走の「笹川賞競走」が毎年5月に行われている。

1952年(昭和27年)に社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与、1955年(昭和30年)には同連合会の会長に就任した。更に競艇の収益を活用する受け皿組織として1962年(昭和37年)に日本船舶振興会(現在の通称は日本財団)を創設し、会長などを務めた[16]。その際、日本船舶振興会のテレビコマーシャルに自ら出演。子供たちとの「一日一善」の掛け声や社会奉仕活動の模様が紹介された。

なお高見山山本直純、子供たちと共に「一日一善」等のシーンは1975年(昭和50年)から会長を務めた財団法人日本防火協会のCMにも使われた。CM全体のイメージが日本船舶振興会のそれとほぼ共通であったため混同されがちである。ちなみに同協会でCMを流していたのは、笹川の在任期間とほぼ同じ1976年(昭和51年)から1994年(平成6年)まで。ちなみに1970年代後半頃はその「一日一善」のCMは、曜日ごとに内容が変わる”曜日変わりバージョン”も存在した。この時期に小中学生であった年代の者にとって、笹川良一は「一日一善」若しくは「『戸締まり用心、火の用心』のおじいさん」として認識されている。

社会奉仕活動[編集]

日本船舶振興会の活動により社会奉仕活動家として知られ、振興会の支援を通して、船舶・造船事業の振興、福祉・国際援助活動、各種武道・スポーツ団体への協力などさまざまな慈善事業を推し進めていった。

その中には日本各地に『B&G(Blue sea & Green land)海洋センター』名の体育館等のスポーツ施設を整備(設置者はブルーシー・アンド・グリーンランド財団)したり、アフリカにおける緑の革命プロジェクトにおいて日本からのODAを補完してアフリカ諸国の食糧増産に貢献したり[17]全日本空手道連盟会長や少林寺拳法世界連合総裁を務めたり、一人一派で流派が乱立していた詩吟関係の団体を纏め上げて、日本吟剣詩舞振興会会長を務めたり[18]宇宙科学博覧会協会の総裁を務めるなどの活動があった。

中でも特筆されるのは、WHO天然痘根絶事業に対する巨額の資金協力(民間団体としては世界一)と、またハンセン病患者の救済である。ハンセン病のワクチン改良にはワクチン接種の第一号被験者となり、(財)笹川記念保健協力財団を作って会長として各国のハンセン病院を慰問して回った。

振興会の経理は透明で支援を受けるには厳正なチェックが必要であった。笹川は振興会の会長としての報酬は一切受け取らなかった一方で関連団体の多くに笹川一族が役員に就任していた[19]ことは「公私混同」との批判を招くことになった[20]。 また振興会の支援が届かない分野には私財を惜しみなく投じたが、その行為はかえって財団の金を好き放題に動かしているのではないかという疑惑を招く一因になった。また、一連の社会奉仕活動も莫大な財があってはじめて成し得るものばかりで、その財の出所はというと株式相場で得たものであった。

反共産主義の活動[編集]

笹川は、巣鴨プリズン時代からアメリカに対しては好意的見方をとっていた[21]が、終戦直前に参戦して日本人捕虜をシベリアに連行して使役したソ連には強い批判を隠さなかった。

1954年(昭和29年)に韓国で発足したアジア人民反共同盟(APACL、現在のアジア・太平洋反共同盟)と、その発展組織であり、1966年(昭和41年)に発足した世界反共連盟(WACL)を韓国の李承晩中華民国蒋介石らと共に設立した。

統一協会とはある時期まで協力関係にあり、1963年(昭和38年)には、統一協会の日本支部顧問を引き受けたり、同年6月4日の72双合同結婚式にも夫妻で参列もした。統一協会1968年(昭和43年)に結成した反共の政治団体国際勝共連合で、結成時から名誉会長を務めたりもしていたが、統一教会の活動が問題視されてきた上、文鮮明との関係が悪くなったためか、1972年(昭和47年)には「反共運動から手を引く」と名誉会長を辞任した。

笹川は、反共活動や日本船舶振興会の活動を通じて、長きに渡り「政界の黒幕」として影響力を及ぼしたと見られているが、戦前・戦後を通じて、政財界を資金の源とすることは無かった。政財界に頼るまでも無く株式や競艇の収益で資金を調達できたことに加え、特定の政治家に肩入れすることで、却って言動に足枷がついてしまうと考えていた[1]

中華民国と中華人民共和国との関係[編集]

笹川自身、反共の立場を取り且つA級戦犯容疑者の一人であったにも関わらず、1972年(昭和47年)9月の日中国交正常化以後は競艇で得た収益金の一部を、中国共産党一党独裁国家である中華人民共和国への支援に回すなどしている。このため中華人民共和国での待遇はVIP待遇だった。

1987年(昭和62年)から始まった中華人民共和国の医学研修生を日本の大学で受け入れるプロジェクトで来日した中華人民共和国の医学生は、延べ二千人を超える。また、同国と対立する中華民国の宗教団体である世界紅卍字会を支援した[22]

タブーと親交[編集]

生前、「新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアで『大物右翼』と呼ばれた笹川良一に関する批判的言説を発表することは、ある種のタブーとなっていた」と言われてきたが、実際は笹川ほどマスメディアから誹謗、中傷された人物は珍しい。これは1960年代から1990年代の各週刊誌を調べれば一目瞭然のことである。

しかし笹川は有名税とばかりに意に介さず「大木は風当たりが強い、との例えどおり、実力のうえにおいて、私のマネができないからヤキモチを焼いているのだ。女のヤキモチより男のヤキモチのほうが強いのだから、これはある意味でやむをえない」と片付けてしまっている。

しかし逆に、笹川を擁護することもまた、ある種の偏見を受ける惧れのあることだった。戦後のマスコミや知識人の多くは笹川に対して「右翼の大立者」、「政界の黒幕」、「名誉心と自己顕示欲のかたまり」など、マイナス・イメージを持っていたため、笹川に好意的な見方を披露すれば、彼らから右翼論者扱いされる危険があった。

なお上記のように統一教会の文鮮明との関係があった半面、仏教系の新興宗教・辯天宗の信徒総代になっている。また、山口組三代目田岡一雄とは酒飲み友達であると公然と話し、暴力団の仲裁役を務めた。

国内に比べると海外では、社会奉仕活動家(フィランスロピスト)として高い評価を受けていた。世界各国の要人と交友関係をもっており、笹川と親交のあった人物の中にはアメリカジミー・カーター大統領ジョン・ロックフェラー[23]等がいる。戦前から巣鴨時代にかけての笹川の人脈は『続・巣鴨日記』の「解説」に詳しい。

遺産[編集]

生前の「世の為、人の為になる事に全財産を使ってしまふ考へでゐる。[24]」という言葉どおり資産の多くを社会事業につぎ込んで、笹川は1995年(平成7年)7月18日、聖路加国際病院急性心不全のため死去。享年??。税務署査定による遺産総額は約53億4千万円、ただしほとんどが、自宅、山林、非上場会社の株など、換金しづらいものばかりであった。これに対して借入金は約37億5千万円、差し引きすると遺産は約15億9千万円。相続税約7億5千万円で相続人中長男と次男は相続放棄し、負債も同時に相続した三男の笹川陽平は、返済に苦労することになった[1]

栄典[編集]

  • 勲一等修交勲章光化章(韓国、1976年)
  • 大綬景星勲章(中華民国、1977年)
  • 勲一等瑞宝章(1978年)
  • 国連平和賞(1982年)
  • ヘレン・ケラー国際賞(1983年)
  • ライナス・ポーリング人道主義章(1983年)
  • マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年)
  • マハトマ・ガンジー世界平和賞(1987年)[25]
  • 勲一等旭日大綬章(1987年)
  • 白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ王国、1989年)
  • 大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ、1989年)
  • 大勲位ボルタ章(ガーナ、1989年)
  • 芸術文化勲章(フランス、1993年)

など、その他多数受章

親類[編集]

孝養の像[編集]

笹川良一・孝子像(笹川記念会館

笹川記念会館箕面市箕面及び全国の競艇場、競艇関係の施設に笹川良一の孝子像(こうしぞう)が存在する。何故か日本財団ビルにはない。これは、笹川が59歳のとき、82歳の母親テルを背負って香川県仲多度郡琴平町金毘羅参りのため、785段の石段を登っている様子を表しているとされる。

  • 「母背負い 宮のきざはしかぞえても かぞえつくせぬ母の恩愛」
  • 「世界は一家、人類は皆兄弟」

との碑文が刻まれている。

なお、同銅像は笹川が生存中建立され、開示されたものである。

映画出演[編集]

参考図書・関連文献[編集]

著書[編集]

  • 『対米戦争怖るゝに足らず -- 附・戦陣訓解説』 国防社(大阪) 1941年
  • 桜洋一郎・編『笹川良一の見た巣鴨の表情 -- 戦犯獄中秘話』 文化人書房(大阪) 1949年
  • 『この警鐘は鳴りやまず』 東京白川書院 1981年8月
  • 『人類みな兄弟』 講談社、編集・共同刊行・講談社インターナショナル 1985年8月 ISBN 4-06-202025-4

笹川良一研究[編集]

1995年に笹川が没したあと、生前は一切公開されていなかった巣鴨の獄中日記や、戦犯家族らとの書簡が研究者の手で編纂され刊行され始め、それまで知られることの無かった笹川の一面に光があたるようになった。まず1997年に伊藤隆と渡邊昭の校訂による『巣鴨日記』が刊行される。これに触発された佐藤誠三郎が1998年に『笹川良一研究 異次元からの使者』、1999年に『正翼(ザ・ライト・ウイング)の男 -- 戦前の笹川良一語録』を相次いで上梓するが、翌年逝去。そのあと、伊藤隆は笹川の息子陽平の協力を得て笹川良一関係文書を整理し、東京裁判を中心とする3部作『続・巣鴨日記 笹川良一と東京裁判1』『「戦犯者」を救え 笹川良一と東京裁判2』『容疑・逮捕・訊問 笹川良一と東京裁判3』を刊行。これら一連の文献は、笹川良一関連文書をまとめたものであると同時に、笹川をとおして東京裁判とはどういうものだったのかを追う研究でもある。伊藤自身は、先の3冊に続くものと位置づけて、この6巻分をまとめた人名総索引を『容疑・逮捕・訊問 』の最後に置いている[27]

その他[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 佐藤誠三郎『正翼の男』
  2. 姪婿にあたる糸山英太郎中山製鋼所仕手戦で苦境に陥った際には、糸山を援助して何とか事態を乗り切ることに成功している、
  3. 1935年大阪鉄道の買占めでは恐喝容疑で大阪刑務所に約4年間収監された(ただし、法廷闘争を経て無罪となり釈放されている)。
  4. 『続・巣鴨日記』26-30ページ
  5. 『続・巣鴨日記』「解説」
  6. この背景には、米ソの冷戦進行が予想以上に早く進展していたためと推測されている。笹川は、東京裁判組以外のA級戦犯としては岸信介、安倍源基、児玉誉士夫らとともに遅くまで収監されていた組であり、方針転換がなければ第2次、第3次あるいはBC級の各裁判で裁かれる予定だった。秦郁彦『昭和史の謎を追う』下(文春文庫)等も参照のこと。
  7. 山岡荘八によれば「彼は志願してでも、戦犯にならなければならないと決心」(『破天荒』)したと言われ、入獄にあたっては派手に軍艦マーチを流すなど敢えて戦犯として入獄することを自ら演出していた
  8. 御厨貴『巣鴨日記』解説 p.8
  9. 御厨貴『表象の戦後人物誌』千倉書房
  10. 『巣鴨日記』笹川良一
  11. 『「戦犯者」を救え 』77ページ
  12. それ以前に面木公昭福島世根らによって競艇の構想があり、彼らは大野伴睦の支援を乞うたが不調に終わっていた
  13. 矢次も福島と交友関係があり、その縁で福島を笹川に引き合わせている
  14. 衆議院側で賛成に回っていた日本社会党が、参議院への法案上程後に反対に回ったため。このため藤・矢次らは広川弘禅宅に押しかけて法案の通過を迫っている
  15. もっとも草創期には足立正(のち全国モーターボート競走会連合会初代会長)や中島久萬吉などの財界人を表立って擁立し、笹川らは実務を取り仕切っていた
  16. 収益を機械工業(特に造船業)振興に振り向ける動きが運輸省内であり、それに対抗する意味合いもあった。事実、競艇の収益の少なからざる部分が笹川のファミリー企業に流れていると言われるなど、公私混同があるのではないかと言われ問題になっていた要出典
  17. 山本栄一『よみがえれ アフリカの大地-笹川グローバル2000の軌跡』ダイヤモンド社1997年
  18. 笹川の死後は未亡人の澄江が会長職を継いだ
  19. 加えて前述したように、競艇の収益の少なからざる部分が笹川系の企業に入っていた要出典
  20. 加えて、運輸省通商産業省からの天下りによる所轄官庁との癒着も批判の理由の一つにもなっている
  21. 落合信彦は『二人の首領』でアメリカ中央情報局との繋がりがあると指摘している。
  22. 笹川の死後は深見東州(学習塾みすず学苑や宗教団体ワールドメイトの経営者)が代わって支援している。深見の父・半田利晴は笹川の知遇を得て皇族の身辺整理などで活躍したことがあり、深見自身も生前から笹川の世話になっていた
  23. 『笹川良一研究』はしがき 佐藤誠三郎
  24. 笹川『平民心書』
  25. 本章の受賞は日本人では最初の受賞であり、ドクター中松(1993年)、池田大作(1995年) 、福永法源(1995年)がこれに続いている。
  26. 松永真理『iモード事件』角川書店 2000年
  27. 『容疑・逮捕・訊問 』「あとがき」459-461頁

関連項目[編集]

外部リンク[編集]